今は「暴力不可時代」への過渡期なのか?

最近、企業・組織におけるハラスメント、暴力に加え、ガザ戦争をはじめとした世界の紛争、および紛争につながりそうなことについて、日々考えています。

企業・組織、学校、家庭など、市民レベルでの暴力、ハラスメントは、社会的には「不可」という捉え方になってきており、これまで一般人の世界とは異なるとされてきた芸能界などでも暴力は「不可」となりつつあります。

暴力は、恐怖と痛みで人を服従させる強い力を持ち、とくに上の立場の人(上司、先輩、先生、親など)が、下の立場の人(部下、後輩、生徒、子など)を思い通りに動かすために「指導」という名のもと行なわれてきました。

しかしながら、デメリットも多く(暴力を振るう人への信頼感が失われる、暴力を振るわれた側の意欲、自主性、自己肯定感、心の健康が失われる、暴力が連鎖し、犯罪につながる等)、「人権」という考え方にも反し、法整備も進み、社会的には「不可」というコンセンサス(合意)がとれてきました。

一方で、国際関係における暴力、すなわち武力行使においては「不可」というコンセンサスはとれていません。
国連憲章では、武力による威嚇または武力の行使は、自衛権の行使等以外では認められていないのですが(武力不行使原則、または武力行使禁止原則)、そのルールを徹底させるための仕組みには課題もあり、まだ不十分だと言えます。

ガザ戦争に関しては、昨年(2023年)12月に、南アフリカが国際裁判所(ICJ)に、イスラエルを「ジェノサイド(集団虐殺)」として、攻撃をやめるよう提訴しました。

国際裁判所から仮処分命令は出たけれど

そして、今年(2024年)、その審理が始まり、一昨日(1月26日)、仮処分命令(暫定措置)が出ました。

そもそも、ガザ戦争に関係なさそうな南アフリカがイスラエルを訴えた理由について書いておきます。
それは、かつてアパルトヘイト(人種隔離政策)で、人種差別を受け、土地を追われた黒人のサバイバーたちが、今や法律家となり、同じような状況のパレスチナを助けようと立ち上がったというのがあります。

南アフリカの黒人にしても、パレスチナの人にしても、あるとき、外からやってきた人(前者は白人、後者はシオニスト)に、故郷を追われ、差別され、人権が無視されているわけです。

領土の略奪は、世界史的には繰り返されてきていますが、いずれも20世紀、第2次世界大戦後の出来事であり、南アフリカの「アパルトヘイト」は廃止されたものの、パレスチナ問題は「人権の世紀」の21世紀に突入しても解決していません。

さて、ICJの仮処分命令は、イスラエルに対して、ジェノサイドを未然に防ぐためにあらゆる措置を講じるようにということでしたが、残念ながら、戦闘中止の命令は出ていません。
そして、イスラエルは、そもそもこれは「自衛権行使」であり「正義の戦い」なので、完全勝利まで戦闘は続けると言っています。

イスラエルの考え方

イスラエルがやっていることは、自衛というには、犠牲者数や女性と子どもがその7割など「暴走」しており、南アフリカが提訴したとおり「ジェノサイド」だと見えるのですが、イスラエル人にとっての「自衛」の捉え方は、他国の人たちとは違います。

日本に移り住んでいる、イスラエルの60代男性の記事(朝日新聞)を読むとよく分かります。
この男性は、20代のとき、日本に旅行に来て住むことになり、日本人と結婚し、仕事もしているのですが、イスラエルと日本の考え方の違いについて語っています。

記事によれば、イスラエルにいたときは「武力で国を守る。死にたくなければ、相手を殺すしかない」という考え方になっていたそうです。

イスラエルは、ユダヤ人が、ホロコーストを経験し、そのとき、どこの国も助けてくれなかったという苦い思いから、1948年に作った国です。自分たちの国が欲しいという悲願から作った国ですが、他国からすると、略奪者です。建国を祝福しない他国から攻められ、国や国民の存続を脅かされているため、政治家も国民も、何がなんでも国や自分たちを守りたく、あらゆる行動はそこに集約されます。

自ら武力で国を守る必要があるし、危険の芽は摘んでおくということになります。

「死にたくなければ、相手を殺すしかない」という考えから、過剰防衛になり、ある意味、加害者の発想になっているのかもしれません。

それに関して、ある記事が参考になります。
それは、ナチスに迫害されたユダヤ人の子孫で、ファシズムを研究する哲学者、ジェイソン・スタンリー氏の記事、「虐殺の『加害者側の論理』」です。

この記事では、アメリカ(先住民を虐殺、奴隷制を採用)、ドイツ(ユダヤ人を虐殺)、ロシア(ウクライナ戦争)のことが書かれています。

虐殺の加害者側の手法は下記です。

  • 特定の集団をやり玉に挙げ、強く否定する。
  • 誤った情報や説を流布し、標的に定めた集団が自分たちを脅かす、自分たちの身が危険にさらされると煽る。
  • 標的への敵愾心(敵に対して抱く憤り)を増幅させ、排除する意義を市民に信じ込ませる。
  • 他の集団を排除することで、自分たちの国民性や民族性を形作る。

この記事を読みながら、今やイスラエルにとってのハマスがその標的になっているのかもしれないと思いました。ハマスは実際に攻撃もしているので、単なる戦争プロパガンダを超え、完全勝利まで戦闘を続けなければ、自分たちが危ういと本当に思っているのでしょう。

このとき、敵は市民も含めて「人間ではない(人権はない)」ということになります。ですので、パレスチナの市民にどれだけ被害が出ようとも、むしろ、危険の芽を摘んでいるという発想になるのかもしれません。

市民レベルで、また、国際レベルで、暴力ではない方法について、さらに考えてみたいと思います。