テレビドラマと真逆にあると感じた「PERFECT DAYS」
映画館に「PERFECT DAYS」を見に行きました。
テレビドラマやハリウッド映画とは真逆の、ある意味淡々とした映画でした。
昔、私が中学生の頃、NHKで「中学生日記」という一話完結のドラマをやっていて、それを思い出しましたが、それよりも軽やかな感じがしました。
「中学生日記」は、何か投げかけては、結論も答えもなく、「えっ、終わり?」とあっけなく終わることが多々ありました。見ている中学生に「答え」を提示するのではなく、考えてもらおう、話し合ってもらおうという意図があったと思います。
「PERFECT DAYS」は、「人生とは?」というような答えのないテーマにおいて、主人公のあり方をひとつのサンプルとして、あなたなりの答え、あり方を自由に感じとってくださいという、押し付けのなさが、軽やかで心地よいと感じました。
テレビドラマやハリウッド映画は、これを伝えたいというメッセージが、繰り返され、見せ場があり、分かりやすいです。さらに、見る人は、すべての事情が分かっている「神」の目線で、登場人物を眺めています。
「PERFECT DAYS」には、そういう「強く分かりやすいメッセージ」や「神の目線」はなく、「穏やかさ」と「適度な距離感」があります。
主人公は、まわりの人と、もっといえば自分の人生とも「適度な距離感」を保つことで、穏やかに過ごしているように感じます。
そして、映画の観客といえども主人公の人生に踏み込みすぎないことで、不要なやきもき(なんで主人公はこうしないんだ。こうすればいいのに)を感じなくてすむのかもしれません。
その穏やかさは、この映画に出てくる街の樹木や主人公の家の植物、そして、主人公が眺める木漏れ日のようです。
植物は確かに生きているし、生長もしていますが、動物のようにアピールはせず、ただそこにいます。動物のように勝手にどこかに行ってしまうこともありません。
木漏れ日も、こちらが気づくと、そこで穏やかにキラキラしています。
たくさんの世界があり、つながっていない
そして、この映画で、「あっ、そうだな」と思ったのが、次の言葉です。
「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」
私は自分を、ある意味、異なる世界を比較的自由に動くトラベラーだと思ったことがあります。
この世界にはたくさんの世界がありますが、皆それぞれの世界で生きていて、その自分の世界を出ることはあまりないように感じます。行動範囲、交流範囲が、決して交わらず、お互いの世界の存在すら気づいていない人たちがいる、いや、むしろそのほうが多いと思うことがよくあります。
そんな異世界間を自分はこれまで移動しウォッチングしてきています。異世界の話を聞き、体験してみるのは、いろいろな気づきがあって面白いのです。
たとえば、「お嬢」は、お嬢の家族やお嬢の仲間とお嬢の世界で生きています。
基本的に、何かを買う店は決まっていて、あまたある他の店には決して行きません。いろいろな意味で、お嬢の世界から逸脱しません。「ローマの休日」のように異世界に興味をもち、そこを訪れることはほとんどありません。
この映画に出てくる主人公の妹は、鎌倉のお嬢のようです。
世田谷のお嬢、アメリカのオレンジカウンティのお嬢、ヨーロッパの名家のお嬢は、それぞれの世界で生きていて、その世界は狭いのです。
お嬢だけでなく、それぞれの人が生きている世界は、たくさんある世界のほんの一部なのですが、それぞれの人にとっては、それがほぼ全部なのです。
「PERFECT DAYS」の主人公は、鎌倉の坊ちゃんだったのに、その世界を出て、異世界で暮らしています。主人公の妹の世界とは、つながっていないのです。
主人公は、生きる世界を自分で選び、その場所で「今」を穏やかに過ごしているわけですが、妹からすると、そのあり方は理解できないものなのです。
いろいろな人が、それぞれのやり方で人生を送っているよね。
スポットライトに照らされる人だけがすごいのではなく、たくさんの人がこの世界を支えていて、それぞれにかけがえのない存在で、かけがえのない人生なのだと、まあそんなことを改めて感じるわけなのです。
(写真は、映画のパンフレットと家のサボテンです)