長崎大学主催 寺島実郎責任監修リレー講座 第1回

長崎大学が主催するセミナーに行きました。

セミナーデータ

タイトル:寺島実郎責任監修リレー講座「世界の構造転換と日本の進路」
第1回「2010年、世界の構造転換と日本の立ち位置」
講師:寺島実郎氏(日本総合研究所理事長 三井物産戦略研究所会長 多摩大学学長)
日時:2010年9月30日 (木) 15:30~17:00
場所:長崎大学
主催:長崎大学 共催:長崎新聞社

内容をまとめました。

長崎大学長 片峰茂氏の話

国立大学は、事業仕分けなどで、予算的に厳しい状況になっている。
事業仕分けを機会に、大学の役割を考え直した。そして、大学を地域の”知の拠点”として再構築しようと考えた。大学に「広報戦略本部」をつくり、その第一弾として、このリレーセミナーを行なうことにした。

寺島実郎氏の話

私は、外から日本を見る機会が多い。
目で見てきたこと、フィールドワークと、統計の数字とを結びつけた時代認識を行なうことが大切だ。

長崎はどういう意味のある土地なのか?
「長崎」は単なる地名ではなく、「長崎学」という思想だと思う。
長崎は日本の近代史に強い意味をもっている。

みな、日本の近代史は、1853年のペリーの浦賀来航から始まっていると思っているが、じつはその前からロシアの接近が脅威となっていた。
ロシアの東方拡大が日本の近代史を開いたといえる。そのロシアの東方拡大に、オランダが果たした意味は重い。

私は、今、17世紀のオランダに視点をおいている。
オランダのリーフデ号が、(1600年に)大分に漂着して三浦按針とヤン・ヨーステンが保護された歴史がある。ヤン・ヨーステンが屋敷を構えた場所が、今の東京・八重洲の地名の由来となっている。

その後、オランダの船が、長崎の出島に来るようになったが、オランダからバタビア、今のジャカルタや、当時オランダ領の台湾を経由して、長崎に来た。

出島に来ていたのは、オランダの公使でもなんでもなく、東インド会社の人、いわば民間の商社マンだった。
出島のオランダ商館長は、毎年、江戸に、医者と書記官の3人で行き、「オランダ風説書」という年次報告書を出し、1カ月滞在した。これで幕府は欧州情勢を知った。

          ◆ ◆ ◆

ロシアのピョートル大帝は、17世紀末、24歳のとき、身分を隠して、オランダ・アムステルダムで船大工の修業をした。そこは、東インド会社の造船所で、日本や、東方の話を聞いた。それが、ロシアの東に対する関心のきっかけとなった。
ピョートル大帝は、1703年にサンクトペテルブルクを建設しはじめた。

その後、ロシアは、1804年に、長崎にレザノフ一行を送った。これは、日本人の漂流民4人を送り届けるという名目でやってきた。この4人は、日本人で初めて世界一周した人たち。
ペリー来航の半世紀も前に、ロシアは日本に来ていたのだ。

その後、1860年にウラジオストクが建設されたが、ウラジオストクというのは「東に攻めよ」という意味。

世界史の文脈からいうと、極東ロシア開発と蝦夷地防衛は並行している。
日本の北海道、蝦夷地開拓は、対ロシアへの強烈なエネルギーから行なわれた。

そして、1871年、明治4年に、ウラジオストクと長崎、上海と長崎は海底ケーブルでつながった。海外の情報は長崎まで来ていた。むしろ、長崎から東京までもっていくのに時間がかかった。

歴史はつながっている。過去の思い出話ではない。

アメリカの歴史に関しても、遡ると、17世紀のオランダにたどり着く。
アメリカの自由はイギリスの歴史ではなく、オランダのDNAだった。
ピルグリムファーザーズは、イギリスから出て行ったのではない。彼らは、オランダから出て行った。彼らは、十数年間、オランダの教会で亡命生活をしていた。オランダは自由な国だった。

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世界中をまわっていて思うのは、戦後の日本人は、アメリカを通じてしか世界を見ていないということ。どっぷりつかっている。
戦前、日本はユーラシア大陸に目を向けていた。東京駅で、東京発パリ行き、ロンドン行きの切符を売っていた。与謝野晶子も、それでパリに行っている。

しかし、戦後、日本海は、日本をソ連、北朝鮮、中国と隔てる、隔絶の冷たい海になった。日本海側を裏日本と呼び、アメリカへ続く太平洋側を表日本と呼ぶようになった。

日本は、太平洋戦争はアメリカの物量に負けたと総括している。
けれども、本当は米中の連携に負けた。日本は、中国に負けたという認識をもっていない。しかし、今、日米中の関係は重い。

戦後、日本はアメリカの物量に対抗しよう、経済で対抗しようと思った。世界で日本人ほど経済に価値をおく人たちはいない。精神性よりとにかく経済という考えが、今日に至る大きな欠陥になっている。

日本はアメリカとの関係を踏み固めながら、アジア、ユーラシアとの関係を構築したほうがよい。

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2009年の日本の貿易総額に占める比重は、アメリカは13.9%で、中国は20.5%。大中華圏は30.7%。
対米貿易は、1990年には27.4%だった。今後、1割を割るだろう。対中貿易は、1990年にはわずか3.5%だった。

大中華圏というのは、中国に、香港、シンガポール、台湾を加えたもの。
中国と、シンガポール、台湾は政治的には壁があるが、産業的には連携している。
中国は、香港、台湾の技術と資本を使い、さらにシンガポールの研究開発力を使って、ネットワーク型で成長している。

シンガポールは、大中華圏の研究開発センター。バイオ、ITなどの開発を強力に進めている。
シンガポールは、完全に日本のブラインドになっている。シンガポールをどれだけ視界に入れられるかがポイント。
シンガポールは、国土も狭く、資源もない、21世紀型の実験国家、バーチャル国家。バーチャルとは目に見えない財。技術、システム、ソフト、サービス、ロジスティックの創出で、国が豊かになり得る。日本、長崎の参考になる。

日本は、厄介な隣人、中国と、迷走する友人、アメリカに挟まれて、途方もない知恵が要る。

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日本は、アブダビの原発受注で、韓国にしてやられた。
韓国のGDPの35%は、ヒュンダイ、サムスン、LGで占められており、底が浅い。けれども、財閥経済であり、ガバナンスが効いている。

日本は、ガバナンスにバラバラ感がある。生真面目な愚かさ。
プレゼンも、メーカーなど、それぞれが、自分のテリトリーに関しては誠意をもってまじめにやるという感じだったが、じゃあ、誰が束ねて責任をもってくれるのだ、というのがわからない。

アブダビにとっては、わかりやすいパッケージのほうがよい。だから韓国に負けた。日本も国策で束ねる必要があると気づいてきた。
日本の強みは技術力だが、ガバナンスにして展開する力は欠けている。

日米中のおかれている構図に関しては、講座第6回で話したい。
(以上)

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この講座は、長崎に来て、ラッピング路面電車で知りました。
母校、長崎大学も、最近はなかなか面白そうなことをやるようになっている。広報戦略本部というものもできたのか、と思ったら、これらの試みは、今年始まったばかりでした。

7月末に長崎に来てから、私は、長崎の歴史的意味の重さとは裏腹に、各種統計数値と、実際に見聞きして分かったさまざまな状況に、愕然とすることが多かったのですが、このような試みを知り、嬉しく感じました。

長崎大学長、片峰氏の開催主旨に「地球規模の多様な課題」の「ブレークスルーの芽は、一極集中の東京ではなく、多様性のある地方にこそ存在するのではないでしょうか」「長崎から新しい価値観を世界に発信する礎にしたいものです」とあります。

また、ラッピング路面電車、ポスターなどに「いま、長崎に在る 私たちの『知』が問われている」とあります。
本当に、問われていると思います。
ブルーハーツの「青空」に「こんなはずじゃなかっただろう。歴史が僕を問い詰める」という歌詞がありますが、今の長崎はどうなのか、歴史から問われていると感じます。

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