「千羽鶴」で烈火のごとく怒られた体験

明日は、長崎の原爆の日です。

台風が近づいているため、式典は、平和公園での2400人規模ではなく、一昨年にオープンした出島メッセ(コンベンション施設)で、市長、市議など最大45人で行なわれるとのことです。

さて、千羽鶴は飾られるのでしょうか?

千羽鶴にあなたはどのようなイメージを持っていますか?

平和、祈り、非核化、病気回復、長寿……。
一羽、二羽の折り鶴だと、おもてなし、和食屋さん。

私は、小学生のときに、千羽鶴でまさに烈火のごとく怒られた体験があります。

良かれと思ったのに

それは、同級生が入院したので、みんなで鶴を折って、糸に通して、千羽鶴にして、病院にお見舞いに行ったときの話です。

私たちは、病室に入る前、本人に渡す前に、その同級生の家族に怒られてしまったのです。「こんなもの、縁起でもない!」と。

千羽鶴は、江戸時代から折られており、おめでたいもの、「縁起物」だったのが、同級生の家族からすると「縁起でもない」ものだったのです。

なぜなら、千羽鶴を「慰霊」「祈り」の象徴として捉えていたからです(ずいぶん後に、そうではないかと思ったことです)。
原爆で亡くなった人の「慰霊」、もしくはもう助からない人に奇跡を起こす「祈り」であり、後者の場合、ほぼ奇跡は起きず、一緒にお棺に入れられることになります。

つまり、すぐに回復して退院するような人のお見舞いには不適切、不謹慎だということで、「縁起でもない!」と、怒られたのでした。

今思うと、お見舞いにお線香や仏花を持って来られた感じかもしれません。

もちろん、私たちは「早く良くなってね」というお見舞いの気持ちで、良かれと思ってみんなで鶴を折り、喜んでもらえると思っていたので、強く怒られて、ただただ驚き、ショックを受けました。

大人になってからなら、千羽鶴は、確かに「慰霊」や「祈り」として使われることが多く、とくに長崎では原爆の「慰霊」や「祈り」のイメージが強いので、「縁起でもない!」と怒りたくなる気持ちも分からないではありません。

怒りの背景にあったであろう気持ち

しかしながら、善意の小学生に強い怒りをぶつけることになったのは、千羽鶴を見ると思い出す、悲しい体験や辛い思い出、もしくは不安な気持ちがあったのでしょう。

アンガーマネジメントでは、怒りのメカニズムとして、怒りの感情をライターにたとえて説明しています。

「辛い」「悲しい」「苦しい」「不安」他のマイナスの感情、「疲れた」などのマイナスの状態が、怒りの燃料になり、燃料が多ければ、怒りの炎も大きく、長く燃えることになります。

逆に、燃料が少ないと、怒りの炎は小さく、燃える時間も短いというわけです。

私はお土産に仏花をもらったことがあるのですが、相手に悪意がないのが分かっていたため、「縁起でもない!」という怒りは起きませんでした。

それは、私が雑誌の編集長をしていたときで、海外からのお客さん(外国人)が持ってきたお土産が仏花でした。

花屋さんに飾ってあった仏花の花束を「キュート」だと思い、買ってきているのですが、私も編集スタッフも、むしろ大笑いしました。

買うときに、花屋さんは確認しているはずですが、本人(お客さん)は分かっていなかったのでしょう。何で大笑いされているのか分からない相手に、仏花の説明をし、一緒に笑いました。

燃料がなければ、もし怒りにつながっても、その炎はすぐに消えるのです。

千羽鶴は、もともとはめでたさの象徴であり、一羽、二羽の折り鶴だと、おもてなしのイメージもあるのが、原爆、戦争で、鎮魂、決して叶わない願いの象徴となってしまい、悲しみ、辛さから、怒りにつながってしまったのでしょう。

千羽鶴を見ると、私は、小学生のときのこの出来事を思い出すのです。