長崎大学 寺島実郎リレー講座 第4回 生命から見直す現代社会

長崎大学主催の寺島実郎責任監修リレー講座 第4回は、下記の内容でした。

<セミナーデータ>
タイトル:寺島実郎責任監修リレー講座「世界の構造転換と日本の進路」
第4回「生命から見直す現代社会 -日本文化を活かす-」
講師:中村桂子氏(JT生命誌研究館 館長)
日時:2010年11月15日 (月) 15:30~17:00
場所:長崎大学
主催:長崎大学 共催:長崎新聞社

中村桂子氏の話

私はほぼ半世紀、DNAから始まって、とにかく「生きもの」から考えるということをやってきた。だからということもあるが、今、社会を見ていて、「生命(いのち)」というのは大事に決まっているのに、「生命よりお金のほうが大事なの?」ということが起きている。このままで本当にいいのかという気持ちがあり、それも含めて話をしたい。

スタートは「人間は生きもの」だということ。同時に「人間は自然の一部」だということ。これは当たり前のことだが、これを当たり前にしていくのが、今、かなり難しくなっている。これを何とかしたいということを、今日一緒にお考えいただきたい。

「人間は生きもの」だということが、どれくらい難しいか。まず、世界の人口の推移の図を見ていただきたい。
(川嵜注:参考になる図が、旭硝子財団の地球環境問題を考える懇談会「生命の条件」データ集(PDF)の11Pにあります→こちら

現代人、クロマニヨン人が地球上に生まれたのは、17万年ぐらい前とされている。人類の始まりはアフリカで、そこから世界に広まった。生物学的に言ったときの種、仲間は、人間は1種類。世界中の人の祖先は1つ。狩猟採取型で暮らしていた。当時1万人にはいかないぐらいの人々が暮らしていたと言われている。

他の動物、ライオンやキリン、シマウマの数は、その頃も今も同じで、何万というぐらいの数で生きている。ところが、人間だけは1万年前に農業を始め、食糧を貯え、数を増やすことができるようになった。そして、千年前、工業を始め、急カーブで増え続け、2007年には67億人となり、2050年にはほぼ100億人になるだろうと予想されている。

人類としてこの数は当たり前で、今いる人で1人としていなくてもいい人はいないが、生きものとしてこの図を考えると、とても不思議なカーブだといえる。こういう状態になっているのはものすごく難しいテーマだが、私たちはこれを考えないで暮らしてはいけない。人口の増加と同じようにエネルギーも使っている。

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今、普通の会話の中に出てくる問題として「地球環境問題」がある。これは自然の動きを知らなければならないし、人間の活動を知らなければならない。そして、私たちがたくさんいる、エネルギーを使っているということと関係がないとは言えない。
さらに、ちょっときつい言葉だが「人心の荒廃」の問題。毎日、新聞を開いたときに、何でこんなことが起きるの、ということが起きている。

私たちは、人工の文明の中で暮らしており、金融市場原理、経済、お金でものが動き、科学技術で社会が支えられている。私たちが文明をもっていることは、他の生きものには絶対できないこと、人間らしさであり、これを否定するつもりはない。けれども、市場原理や科学技術だけでものを考え、自然や生命を破壊するということが起きている。

地球環境破壊問題はよく指摘されているが、人間は生きもので、自然の一部であり、自然を壊すような行為が、内なる自然である私たちの身体や心を壊さないわけはない。

今の社会で、「地球環境問題」と「心の荒廃」の両方とも問題になっているが、地球環境問題は政治や技術で解決しよう、心の問題は道徳教育や宗教心がなくなっているのがよくないなどと言われている。
もちろんそういうこともあるが、両方とも「人間が生きもので、生命があるものだ」ということを忘れたが故に起きている。だから、生命のことをどうするかということを考えないと問題は解決しないと私は思っている。

心は見えないが、生きものには欠かせないものがある。
それは「時間」と「関係」。生きているということは、時間を紡いでいるということ。忙しいとは心が亡くなるということに、昔の人も気がついていたと思う。そして、生き物は関係なしには生きられない。
今の社会は「時間」と「関係」、この2つを切ることを、私たちに強いている。それがまさに「人間は生きもの」だということが難しくなっていることだ。

そこで私が考えたいのは、人工の世界、科学技術、都市、制度などを否定することではない。
現代の社会は、「人工」を「人間」と「自然」のあいだに入れるということをしてきた(人間-人工-自然)。寒いときには、駆け出して暖かくするのではなく、空調をする。
しかし、人間は自然の一部だから、「人間」が「人工」と「自然」のあいだに入る(人工-人間-自然)。人間がいつも自然とつながりながら、しかし、人工も作っていくシステムを作ることが、次の時代にやることだと思っている。決して易しいことではないが、今これをやらないと、私たちが生きものとして、本当に納得して生きることはできない。

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20世紀は、象徴的にいえば「機械と火の時代」だった。
この100年間にエネルギーを大量に使い、テレビや携帯電話、電子レンジなど、私たちの身の回りにあるほとんどのものができた。素晴らしい時代だったといえるが、このまま行けるかというと、できないと思う。
21世紀は「生命と水」ということを考えたらどうだろうと思う。

日本がこれから世界のなかでどうリーダーになっていくか、日本は何をできるのかということについて考えたい。
地球のエネルギー、「生命と水」を支えているのは太陽。太陽をいかに上手に使うかというのが大テーマ。太陽電池やいろいろなものが出てきている。

日本にもっと期待したいということで、残念な体験を申し上げたい。
じつは、1974年、当時の通産省が「サンシャイン計画」を立てた。新エネルギーとして、太陽をいかに使うかということを考えた。
そして、1978年、「ムーンライト計画」という省エネ技術を考えようということをやった。
1989年には「地球環境技術研究開発制度」で環境問題も考えよう、93年には「ニューサンシャイン計画」という、エネルギー・環境領域総合技術開発推進計画を立てた。
世界の流れをみても、こんなに素晴らしい計画を、こんなに早く立てた国はなかった。

ところが、こういう研究の成果として出てきた太陽電池、熱利用、省エネ技術が、今やっと世界的に話題になってきたが、みんなドイツに見学に行っている。日本は、これだけ考えていたのに最後までやっていなかったのだ。残念である。

日本人には、こういうセンスと個別の技術開発能力はあるが、国中できちんとやっていこうというところが足りない。なぜできなかったのかというと、コンセプトがない、どのようにものを考えていくかという、基本的な考え方が足りなかった。

20世紀は、なんでも機械だ、人間だって機械だ、便利なものをどんどん作っていこう、分析して、還元して、どんどんわかっていくという時代だった。そういう考え方で個別技術を作っても、太陽エネルギーを使うという方向に人々は動かない。
世界観、私たちはどういう存在で、どういうところにいて、何をしたら幸せかというところまで考えるようにならないと、変わらないのではないか。

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これは私の提案だが、21世紀は「生命論的世界観」、私たちは生きているんだということを誠実に考える、生まれて、育って、死んでいくということを考えたらよいのではないか。

生命だけでなく、宇宙も、無から生まれ、動いており、機械ではないという宇宙論が出てきている。そういう時代が来ている。これまでは、宇宙も既にできている機械として分析していける、調べればなんでもわかると思っていた。しかし、生まれてくるんだと思ったら、知らないことがこんなにあるということがわかってきた。

昔の人は、宇宙観として、直観的に深いことがあると知っていた。私たちは科学を知ってから、私たちの知っていることだけで宇宙はわかると思っていた。けれども、じつは科学が進んでみたら、深いものを考えなければいけないという時代になった。

生きものも、何千万種類といるが、全部38億年前に地球の海の中で生まれた細胞から生まれた、みんな同じ子孫なんだということがわかってきた。生きものもわからないことだらけだ。
私たちがもっている細胞のDNAの中には、38億年の歴史が入って生きている。この歴史物語を読み解くことで、生きものって何だろう、どういう生き方をすればこの地球の中でうまく生きられるのか、というのを学ぼうとしているのが「生命誌」である。

20世紀型のものの考え方をすると、生きもので人間は特別だと別に置きたくなるが、38億年の歴史と他の動物とのつながり、まさに「時間と関係」をきちんと踏まえなければ、新しいことは考えられない。
「生きている」というのは何かをよく見つめて、そのうえでどう生きるかを考えませんかというのが、私の提案だ。

たとえば、熱帯雨林にどんなものがいるか、アーウィンという、アメリカのスミソニアン博物館の人が、1本の木にいる生きものを、世界中の専門家に見せて調べたら、わかったのは3%、97%は誰も知らない生きものだった。熱帯雨林がいかに多様で、私たちがいかに知らない中で生きているかがわかった。

熱帯雨林の木の中に、キープラントという大事な木、いつも実がなっている木がある。この実を割ると蜂が入っている。このイチジクとコバチを調べていくと、1億年前には1つだったのが、それぞれの場所に合わせ、多様化してきたことがわかる。
そして、イチジクとコバチはずっと長い間共棲している。そして、この小さな蜂とイチジクが森を作っている。
人間が木を植えることよりはるかに上手にやっている。こういうことをきちんと知ったうえで、それを生かしていく。

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機械論での、現代の科学技術の目的は何かというと、利便性を高めること。便利になることがとてもよいことだというのが、今の機械の中での価値観。早くできる、手が抜ける、思いどおりにできるというのが「便利」。
しかし、生きものは、子どもでも、早くできない、手も抜けない、手をかけても思いどおりにはできない。それをきちんと踏まえてやらなければならない。

機械は思いどおりでないと困る。車のブレーキがアクセルになると困る。
しかし、生きものは思いどおりにはならない。思いどおりにならないのはマイナス、扱いにくいというのがこれまでの価値観だった。
思いどおりにならないということは、思いがけないことも起きるということ。子どもでも同じ。

そう考えるときに大事な分野は、「食べ物(農業・水産業)」「健康(医療)」「住居(林業)」「心・知(教育)」「環境、とくに水」。これを機械で考えたら、私たちは生きにくくなる。
この分野は、20世紀に私たちがやってきたなかで、遅れている、うまくいかない、問題だらけとされた。しかし、「生きる」ということから考えたら、もっとも大事な分野だ。
機械は便利がいいが、生きものは続いていくことが大事。環境問題を私たちが考えるのは、続いていけそうになく心配なため。子どもに孫に続いていくことが大事。

経済、技術、みんな大事だけれども、経済ありきのために、技術を開発すると、生命が危なくなる。ここで働いている力は権力ではないかと思う。
先ほどの虫にかぎらず、「生きる」というところにたくさんの力がある。「食べ物(農業・水産業)」などの分野をきちんと考えて、命を支えるような技術を開発し、それで経済を成り立たせるという順序でものを考える。権力よりも、生きる力を大事にしませんかというのが、日本からの発信、日本の進路に対して、私が思うことである。
現代は、人間は生きものであるということを忘れているが、これを忘れてはいけない。

生きものをよく見つめて、わからないこともあるということも認めて、謙虚になり、そして、本当に心豊かに生きるにはどうしたらいいかから発想して、技術を考え、経済を生み出しましょうという提案だ。

生きものを考えていくときに、日本は自然に恵まれた、いいところにあると思う。日本の文化をみていくと、自然に近寄っている例がたくさんある。
たとえば「源氏物語」には自然が見事に書かれている。また「虫愛づる姫君」という話があるが、そこから「愛づる」という言葉を日本の進路のベースに提案したいと思っている。
「虫愛づる姫君」は、蝶々になったら可愛いが、見たら汚い虫を、お姫様は、この虫は本当の意味で一所懸命生きている、そう考えたら素晴らしいとおっしゃる話。それが「愛づる」ということ。

この愛は、ラブではなくフィリア。フィロソフィーのフィロ。フィロは愛、ソフィーは知。哲学と訳されてしまったが、もともとは、知を愛するということ。
この愛は、よく考えて、よく見つめて、よく理解したうえで、そこに生まれた愛をベースにして行動すること。

21世紀は、政治でも経済でもなんでも、いい加減にしないで、本当によく見て、実体から考えて、望むべくはそこに愛を感じ、素晴らしいと感じたうえで、いろんなことをやっていく。そうすることによって、人は生きものであると同時に、新しいことをする人間でもあることとの兼ね合いがとれるのではないかと期待している。
(以上)

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中村館長が提示された世界の人口の推移の図を見ると、人類の歴史の中での、20世紀の特異性というのがよくわかります。

20世紀は「機械と火の時代」であり、「機械論での、現代の科学技術の目的は、利便性を高めること。便利になることがとてもよいことだという価値観」という話を聞きながら、「効率化」「生産性向上」という単語を思い出しました。

たとえば、卵を生産するのに、効率を上げるため、通常、鶏は1日に1個しか卵を産まないのを、電灯を使って1日のサイクルを短くし、たくさん産ませる。耐えられるよう、抗生物質やワクチンを与えるということも行なわれている現代。
自然をも「効率化」しようとしてきました。

「本当に心豊かに生きるにはどうしたらいいかから発想して、技術を考え、経済を生み出し」ていかないと、「命を支えるような技術を開発し、それで経済を成り立たせるという順序でものを考え」ないと、取り返しがつかなくなると感じます。