経済について考える本(3)「人気中国人エコノミストによる中国経済事情」肖敏捷著
まず、肖 敏捷氏の「人気中国人エコノミストによる中国経済事情」(日本経済新聞出版社/2010年7月発行)。
まず、改革・開放の歴史について、ポイントをまとめました。
・現在の中華人民共和国は、1949年10月に成立し、2009年に60周年を迎えた。
・最初の10年は、旧ソ連からの援助を受け、重工業プロジェクトの建設を中心に、比較的経済発展に専念していた。
・しかし、その後、政治闘争が繰り返され、1958年から1978年までは「失われた20年」となった。1960年代後半から「文化大革命」が起こり、経済活動は停滞、国営企業は操業停止に追い込まれた。このとき、高校を卒業した若者は農村部に強制的に送り込まれ(下放)、大学入試も中断された。
・その後、1978年から2009年までの30年強、「中国の実質経済成長率は年平均10%に達し」た。
・1977年に復活した鄧小平氏が全国の大学統一入学試験を11年ぶりに再会し、全国で空前の勉強ブームが起きた。1978年には西側諸国への留学生派遣も再開した。
・1978年、副総理だった鄧小平氏は日本を訪問し、それから「日本に学ぼう」の大号令となった。
・さらに、1983年、胡耀邦総書記の訪日で、国民的レベルの日本ブームが引き起こされた。
すなわち、中国の1978年からの改革は「日本に学ぼう」から始まりましたが、中国は現在に至るまでの30年強、成長を続けています。
中国と日本の実質GDP成長率をグラフにしてみました(データ出所:中国:中華人民共和国国家統計局 中国統計年鑑 2009年 2-3 Gross Domestic Product at Constant Prices/日本:内閣府 GDP増価率(実質暦年))
中国の基本である「8%成長目標」は「激しい政治闘争の産物」だったといいます。
経済成長目標は、1981~1985年の「第6次5カ年計画」が4%、1986~1990年の「第7次5カ年計画」が6.7%でした。しかし、1989年に「天安門事件」が起き、その翌年の成長率が3%台となり、1991年からの計画の目標を6%としたところ、鄧小平氏の逆鱗にふれたため、8%成長と改められました。それから「8%」を守り続けているとのことです。
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その後の歴史は次のようになります。
・1992年に鄧小平氏の「南巡談話」を契機に、「天安門事件」で一時的に停滞していた改革、開放が再加速した。「天安門事件」は、中国が日本経済に追いつき追い越せのスタートとなった。
・そして、中国は、1990年代後半から日本に興味を失い始め、2001年、小泉総理の靖国参拝を契機に、日中の首脳同士の交流が数年間途絶えた。この頃から、中国は愛国教育の一環として反日教育に力を入れる。
・中国は2000年以降、国有企業の株式化(民営化)が本格的に動き出し、香港など海外の証券市場への上場ブームが始まった。しかし、日本はバブル崩壊後の不良債権処理に追われ、参加する余裕も体力もなかった。
1990年代は、日本にとって、バブル崩壊後の「失われた10年」でしたが、中国では、鄧小平氏に抜擢された朱鎔基氏が大きな役割を果たしています。朱鎔基氏は、1991年に副総理、1998年に総理に就任しましたが、2003年に引退するまで、さまざまな改革を進め、中国経済に構造的な変化をもたらしました。
中国は、政治面では共産党一党が独裁していますが、経済面では国有、民間、外資の「三国鼎立」構造となり、民間、外資が中国の経済成長を支えています。この構造をつくったのが、朱鎔基氏です。
朱鎔基氏は、大型国有企業を香港市場に上場させ、グローバル・スタンダードという外圧により、情報開示や説明をはじめ、さまざまな経営改善を余儀なくさせるという形で、発展を促しています。
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中国経済の発展に寄与している、民間企業、外資企業ですが、今だにすんなりと受け入れられていないところもあるようです。
・民営企業は、依然、さまざまな差別を受けている。存在感が大きくなればなるほど、既得権益を死守する国有企業との摩擦が激化する可能性が高い。
・また、民族主義の台頭で、これまで「超国民待遇」を受けてきた外資企業が苦汁を飲まされる事例が増え始めている。しかし、外資企業の躍進は、中国の消費者が自ら選んだ結果なので、中国内から締め出すのはもはや不可能だろう。
同書では、香港と台湾についてもふれてあります。
・香港は、「資本主義中国のフロントランナー」である。香港市場は、中国企業にとって、海外上場の最大の受け皿となっている。
・重要なのは、香港は中国企業をいかに世界の投資家に売り出すのかというノウハウを備えている点。中国企業の強み、弱み、欧米投資家の期待と不安を把握し、両者の仲介役を果たせるのは香港しかない。
・また、海外進出の経験をほとんどもたない中国企業にとって、香港は、もっとも身近な国際金融、貿易、情報センターである。中国語のわかる会計士や弁護士も多い。
・欧米の大手証券会社は、欧米の名門大学のMBAを持つエリートである、中国の大物の子弟を、香港に送り込み、成長力の高い中国企業とグローバル資金を香港に呼び込むことで、成功している。
・台湾企業は、IT関連製品等のOEMメーカーとして、中国の安価な労働力と土地を利用し、世界規模の企業に成長しているほか、消費スタイルやファッションなど日本の流行をいち早くキャッチし、それを中国大陸で受け入れられやすいよう「翻訳」する「伝道師」の役割も果たしている。
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さらに、上海の事情、2008年からの中国経済、日本に学ぶことに関してもふれられています。
・上海は、1980年代には「中国の生産工場」として中国全国に生活用品を提供していたが、90年代に入って、輸入品だけでなく、広東省の経済特別区の企業の製品にも負け、衰退の道をたどり始めた。
プライドの高い上海人は、留学生として日本へ渡った。大学の若手講師や研究者、医者、技術者など数多くの頭脳流出につながった。
・鄧小平氏は、上海の衰退を阻止するため、国家プロジェクトを行なうこととし、浦東開発戦略が動き始めた。政府にとっては開発できる土地は無尽蔵にあり、これまで上海人が見向きもしなかった浦東地区は高級住宅地に変わり、不動産バブルを招いている。
・2008年、中国経済は失速した。
・理由の1つは、オリンピックバブルの芽を摘むための金融引き締めの影響。次に五輪規制による影響。そして、リーマンショックによる「世界の生産工場」の危機だった。
・そこで、中国政府は、それまでの景気の沈静化から一転、4兆元の景気刺激策を行なった。その大半はインフラ整備だった。
・また、危機に陥っている海外から、「高級人材」をリクルートし「特別待遇」を与え、国家の研究開発や、中央企業、金融機関に配置する人材誘致キャンペーンにも力を入れ、「頭脳流出」大国から「頭脳獲得」大国への転換を図っている。
・今回の景気刺激策で、土地錬金術に走る地方政府が増え、内陸部まで不動産開発ブームが広がった。政府は引き締めを図っている。
・日本に学ぶことは、経済成長が停滞しても社会秩序の安定を保てること。
・また、日本の戸籍制度。中国の戸籍には、都市戸籍と農村戸籍とがあり、機会の不平等や所得格差をもたらしている。
・日本へのアドバイスとして、日本はアピール力が足りない。日本の製品やサービスのよさが伝わっていない。ODAの役割に関しても、その内容に関して、中国人はもとより、日本人さえ知らない。「沈黙は禁」だ。
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まさに「『日本に学ぼう』から、いつの間に『日中逆転』したのか?」と思う日本人も少なくないと思います。とくに、中国が社会主義国であることが、日本人にとって、中国や中国経済への理解を難しくしていると思います。
しかし、同書を読むと、この30年間、強力なリーダーシップのもと、成長を続けてきた中国の軌跡をあらためて知ることができます。日本が停滞しているときも、中国は着々と改革を続け、成長を続けてきていたのです。
しかし、その成長は「矛盾だらけのいびつな成長だった」という意見もあります。その本を、次回、紹介します。