長崎大学リレー講座2011 第6回 内田樹氏
<セミナーデータ>
タイトル:長崎大学リレー講座2011 東日本大震災後の日本を考える
第6回「ポスト3/11の日本再生プログラム」
講師:内田樹氏(凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授)
日時:2011年12月8日(木)18:00~19:30
場所:長崎大学
主催:長崎大学 共催:長崎新聞社
URL:http://www.nagasaki-u.ac.jp/relay-seminar/2011/
■内田樹氏の講演内容
もはや「国民経済」が維持できない
「3.11」で我々の社会システムの脆弱性が露呈した。
友人の平川克美氏が、「小商いのススメ」という本を書こうとしているが、日本の企業倒産数は、記録的なものになるだろうと言っている。
企業自体が消滅していく。日本社会は地盤沈下、土台の崩落を起こしている。
先日、トヨタの豊田章男社長の「国内での300万台生産が維持できなくなる恐れがある」という発言が新聞に載っていた。
トヨタは、これまで国内300万台の生産を死守してきた。国内の雇用を確保し、地域経済を支えてきた。それが、もう死守できないかもしれないという。
この発言はあまり重視されていないが、どれくらい重要かというと、このままいったら、中京地区での経済が崩壊する。「国民経済」をもう維持できないという意味だ。「国民経済」というのは、かつては、成功したビジネスには、地域経済、国内を支える責務があった。
しかし、ユニクロの柳井社長は、社内公用語を英語にするといっている。また、これから社員の3~5割を外国人にするとも言っている。
地域経済、国内を支えるという発想はない。いまのビジネスマンのなかに、国民経済を考える人はいない。
経済は、本来は「経世済民」、いかにして民を救うかだ。同胞を支援することを考えていた。
しかし、グローバリズムはそうではなく、同胞が死んでも構わない。日本列島に根を下ろしているグローバリズムに対して、おかしいというジャーナリストがいない。
富は超富裕層に集中し、分配されない
「トリクルダウン理論」というのがある。
新自由主義の考え方で、選択と集中で、資源を、国際的に勝ち目のありそうなものに集中させるという方法だ。そうすれば、国が潤い、つゆがしたたり落ちるように、貧しい人にもお金が落ちる。
アメリカ、日本、中国もこれをやってきたが、もう機能しなくなった。
中国では、自分の村に秀才が出ると、皆の支援を受けて中央に出て行く。そうすると、その人は一旗揚げて、故郷に戻ってくる。故郷に錦を飾る。しかし、もはや故郷には戻ってこない。獲得した資源を貧しい同胞に分配しようとはしなくなった。
トリクルダウンはもはや機能せず、超富裕層に国富がどんどん集まっていく。「成長なき社会」になっている。
「閉塞感」の正体
維新の会が、大阪に元気がない、閉塞感があると言っている。しかし、今、日本のどこに元気のある街があるのか?
東京は元気か? いや、東京から本格的に疎開する人が出ている。ジャーナリストなど、家族を避難させている。
放射能の影響に関して、彼らに根拠はないが、官邸も誰も状況を理解していないということはわかっている。
3月14日に、ブログに疎開の勧めというのを書いた。そうしたら、パニックをあおるなとバッシングが強かった。与党の政治家からも電話がかかってきた。
しかし、今は、様子見ではなく、恒久的に避難する人たちが出ている。
地域経済は、大阪だけでなく、どこも疲弊している。
日本全体が巨大な力によって影響を受けている。それを、維新の会は、属人的な問題に矮小化している。市長が無能、公務員、教員が悪いと、スケープゴートにされている。
「閉塞感」とは何なのか?
誰も説明できない大きな問題が起きている。
「閉塞感」とは、私は、自分の努力とリターンがつながらない、努力しても手応えがない、底なしの無力感だと思う。
それを引き起こしているのが、「経済のグローバル化」だ。
いろいろなファクターが、世界とリンクしているため、世界で何かが起きると、影響が自分に及ぶ。
ドバイで不動産バブルがはじけると、仕事がなくなり、首になる。負のトリクルダウンだ。マイナスの影響が、瞬時に一気に来る。自分に直接関係のない国の影響が、パーソナルな空間に入り込んでくる。
自分は一所懸命やっているのに、世界で何かが起こり、自分の雇用、賃金が一気に下落する。自分の個人的な運命が変わる。
ネガティブなことは翌日来る。ポジティブなことは来ない。
その「無力感」が「閉塞感」だと思う。
「グローバリズム」の正体
小さなエリアでぐるぐる回しているうちは影響は起きない。
しかし、グローバルにリンクを張ると、国という緩衝材がなくなり、けっこうでないものが一気にくる。
アメリカの安いトウモロコシが入り、メキシコのトウモロコシが壊滅した。
グローバル経済と国民国家は齟齬する。グローバル企業は国民経済と敵対する。
グローバル経済は後がない。
一握りの集団のところに世界中の富が集中していく。貧困化が止まる見通しが立たない。
就職氷河期といわれるが、学生は、採用する企業人のマインドの冷たさに傷つく。
即戦力、グローバリズムという考えが、学生、同郷人、同国人を否定する。
企業は、本来は雇用を達成するために仕事を確保する。
地域社会の下支えとして、人をたくさん雇用できるビジネスモデルを考える。
それが、今は、たくさん雇用するのは、生産性が低い、非効率だといわれる。
生産性が高いというのは、人が要らないということ。だから、失業者があふれる。
今はいかにして人を削るかを考えている。
だから、志の高い人は、第一次産業にシフトしている。
今、グローバル化、右肩上がりと言っている人は、世界で起きていることの意味をわかっていない。
国民経済は、みんなで配分するが、グローバル化は、勝ち組が全部とっていく。
日本の進むべき道
私の提案はシンプルだ。基本は「鎖国」「”廃県置藩”」「天皇親政」だ。今から数週間、数カ月、福島を天皇領にする。
これらは、オーバーだが、要は、世界中に張っているリンクを減らすということ。
世界の景況に、雇用環境が左右されてはいけない。リンケージを切ったほうがよい。
今、政治家は、これもダメ、あれもダメと、ありとあらゆるネガティブなファクターに縛られ、「もうこの道しかとれない」ということになっているが、それは政治家ではない。もっとフリーになって選択肢を増やしていくべきだ。日本は、森林など世界標準になるものをもっている。日本にあり得るオルタナティブ(既存のものと取ってかわる新しいもの)の幅を広くとらないといけない。
世界で成功しているのは小さい国。フィンランドは500万人だ。
「廃県置藩」というのは、小さい行政単位にして、ある程度完結させるということ。藩は、自然発生的行政区分で、生活者の生活実感に基づいた生活単位だ。言葉と食文化が同じだから、共同体意識がある。
人がリミッター(制限)を超えて爆発的な力を出すのは、自己利益の追求ではなく、自分の傍らの人を助けるときだ。
仲間を助けることが、自分の限界を超えて成長していくことにつながる。
共同体には、弱い人間、助けなければいけない仲間がいる。チームのため、人のためというのは、じつは刺激する要因だ。
弱者を抱え込んでいるほうが、底力が爆発していく。そんなことはじつは、企業はわかっている。
日本は、「成長なき社会」、レヴィ=ストロースのいう「冷たい社会」に向かっていっている。
他人と比較しない。昨日の自分と比較することだ。標準値はない。オーバーアチーブする(期待を超える働きをする)。
全員が個性であり、共同体のメンバーの潜在している能力を、ある日開花するようにするのが教育だ。
(以上)
◆ ◆ ◆
内田氏の「いろいろなファクターが、世界とリンクしているため、世界で何かが起きると、影響が自分に及ぶ」という話を聞きながら、そういう感覚は、長崎の人には江戸時代からあったのではないかと感じました。かつて、ヨーロッパ、ロシア、中国、アジア、アメリカ、そして江戸の動きが、実際に影響をもたらしていたので、日常の感覚になっていたのではないかと感じます。
だから、内田氏の鎖国、リンクを減らすという提案に、長崎の人はピンと来たのか、よくわかりません。
長崎の人は、日本が鎖国をしていたときも、出島を開けていたわけで、むしろ、いろいろなところにリンクを張ることによって、個人商店までメリットを享受していたと思います。今も、上海から人を呼ぶことで、巻き返しを図ろうとしている感じがあります。
それに、長崎市の人に「藩」という意識はありません。長崎(市)は、そもそも「天領(幕府領)」で、藩はありませんし、開放的で、楽観的、いろいろなものを取り入れる「和華蘭文化」の人たちですので。
世界中にリンクを張ると、世界中の影響を受けるという内田氏のいうことはもっともですが、長崎の人は、「ネガティブなことは翌日来る。ポジティブなことは来ない」とは決して思っていない。ネガティブなことも来るかもしれないが、小さなエリアでぐるぐる回すより、リンクを張って、ポジティブなことを引き寄せるのを望んでいるのではないかと思います。
グローバリズムは、富を分配しないのか? グローバリズムで共同体はあり得ないのか? グローバリズムと共同体意識は相反するのか? 共同体意識は、土地に根差したものなのか? これは、ネットや、国際間を気軽に移動できる人たちの出現で変わりつつある気もします。
私が小学生のとき、大阪万博があり、見に行きました。大阪万博では、コンピュータ、科学技術の発展、宇宙開発、そして、世界というのを、ものすごく意識しました。月に比べれば、地球上はどこでも近い気がしました。自分の感覚は、月が同じように見える場所は、ローカルエリア、近くで気が合わない人もいれば、遠くで気が合う人もいる。どこにいても、親しい人が同胞という気がします。