「日本人はなぜ震災にへこたれないのか」という本
「日本人はなぜ震災にへこたれないのか」(関裕二著 PHP新書)という本を読みました。
著者の関裕二氏は、歴史作家で、日本古代をテーマにした作品をたくさん書いている方です。
同書によれば、日本人が震災にへこたれないのは、古代からの日本の環境と、それによって先祖代々受け継がれ、染みついた考え方、習俗、信仰によるものだといいます。
すなわち、日本は古代から繰り返し災害に襲われている「災害列島」です。
そういった環境の下、人々は災害を「神の仕業」と考え、「神々の怒りを恐れ、敬い、へりくだり、おだてあげ、必死に祀りあげ」てきました。
大自然=神で、それは「祟りをもたらす恐ろしい神であると同時に、豊穣をもたらすありがたい神でもあった」。神は、ときに鬼、悪であり、ときに善であったのです。
日本は、多神教の国であり、自然=神に対するとらえ方が、キリスト教やイスラム教など一神教の国とは異なります。
「一神教は『神がすべてを創造した』と説き、神の子の人間は大自然を改造する権利を有すると説く」。神>人間>自然の順に偉いのです。
そして、一神教の人は、「神が災異をもたらすという不条理の裏側には、何かしらの真実が隠されていると考え」、「裏側に隠された法則性を求め、災害の猛威を克服し、やがて、大自然をコントロールしようと考えた」。
すなわちそれが「科学」であり、「科学を用いれば、人間が大自然の主人となり、所有者になれると考えていた」のです。
それに対し、「多神教は、『人間は大自然には到底かなわない』と考える」。神=自然>人間の順です。
だから、大災害に見舞われれば、人は「ただただ大自然の猛威にひれ伏し、あきらめ、再生を願うだけであった」。そして、「せめて神には穏やかでいてほしいと祀りあげた」のです。
近年、日本もすっかり”科学の力、文明で自然をコントロールできる””人間>自然”という発想になっていたのが、自然の威力は”想定外”であることを、今回の震災で私たちは、改めて思い知らされたのかもしれません。
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日本人がへこたれない理由に関して、著者は、次のようにまとめています。
(1)大自然には勝てるわけがないという諦念。
(2)たしかに、神(大自然)は荒れ狂い、人々を苦しめる。けれどもいつもかならず、人々に恵みをもたらす時がやってくる。荒れ狂えば狂うほど、豊穣をもたらす力も大きいという逆説の信仰。
(3)生命は必ず滅びるが、それで終わるわけではない。魂は新たな肉体に宿り、やがてこの地に戻ってくるという、循環の思想と底抜けに明るい希望。
「この三つの発想があるから、日本人は強いのだ。必ず、立ち直ることができるのだろう」と著者は言います。
そして、「政府はポンコツなのに、なぜ東北の人々は、一歩一歩、歩みを進めていくことができるのかといえば、それば、『共存する目に見えない知恵と力』があるからではないか」とも言っています。
日本では古代から「多くの人が少しずつ力を持ち寄った時、大きな功徳がやってくる」「一人ひとりの力は小さくとも、束にすれば、何倍もふくれあがる」と信じられていたと言います。
さらに、著者は、日本は今、「何をやってもうまくいかない時代」にあるが、人も国も、よいときもあれば、そうでないときもある。絶好調のときもあれば、スランプに陥るときもある。あきらめずに「この正念場を乗り越えれば、必ず明るい未来がやってくる」と言っています。
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この本を読みながら、そして、今回の震災、原発の事故で思い出したのは、昨年の長崎大学の講座での中村桂子氏の話です。
中村氏は、20世紀は「機械と火の時代」だったと語っています。
お金でものが動き、科学技術で社会が支えられてきた。エネルギーを大量に使い、利便性、効率を追求してきた時代です。
そして、しばしば「人間は生きもので、自然の一部である」こと、「生き物は、生まれて、育って、死んでいく」ことが、裏のほうに追いやられてしまっていたようです。
今回の震災は、文明で守られた街や、科学技術で守られた原発を、大自然の猛威が破壊した。
人間は文明と科学技術により、自然や命さえもコントロールできるようになったと思っていたのに、そうではなかった。
自然はうつろいやすく、命ははかない。自然も生き物もやはり”無常”だということを、改めて思い知らされたのかもしれません。
資本主義も行き詰まり、これまでのさまざまな常識が覆されていっています。先が見えない、ある意味、不安な時代が到来しています。
けれども、それはむしろ新しい時代の幕開け、夜明け前の闇のようなものかもしれません。
日本だけでなく、世界が、これまでのステージから、次に行くことを求められているように感じます。