「勝ち組」と「負け組」。「幸せ」と「仕合せ」
宋 文洲氏のメールマガジン最新号(第132号)の内容を紹介するのに、サイトにリンクしようと思ったら、最新号は掲載されていなかったので、概要を書きます。
「負けたほうがいい」というタイトルです。
ほとんどの人々は知らないうちに他人との勝負に参加しているが、勝負に執着する人の多くは、勝っても負けても人生が負けてしまう。「勝ちたい」「他人に遅れるまい」という心から、くだらないことでむきになり、自分が見えなくなる。何のために勝負に参加しているかは考えない。けれども、他人との無意味な勝負に人生を浪費する暇はない、というものです。
メールマガジンの一説を紹介します。
「私が嫌いな日本語に『勝ち組』と『負け組』があります。人生は自分に属す幸せを自分の心で感じ取る過程であり、決して他人との勝負ではないと切に思うからです。」
もっともだ、と思っていたら、アエラの最新号(10月12日号)に、面白い記事が載っていました。
勝間和代さんと香山リカさんの対談で、タイトルは「『ふつうの幸せ』に答えはあるか」です。
さらに、関連記事で「カツマーとカヤマー 新・幸福論」があります。
この関連記事のリード文は、以下のとおりです。
「頑張っているのに、なんだか幸せじゃない気がしていた。
スゴイ人にならなければと思い込んでいた。
考え方を変えてみたら、と教えられた。
自分なりの心地よさで努力することも大事だと知った。
勝間さんと香山さんが唱える幸せの話。」
この関連記事の最後で、宇野常寛さんが、次のようなことを語っています。
(勝間さんも香山さんも)「どちらも、流動性のある自由競争社会でサバイブすることが勝ちで、サバイブできなければ負けという価値観に基づいて、生きる術を示している。勝った人にとっては勝間本が、負けた人にとっては香山本がサプリメントになっているだけに見える。」
なるほど、と思いました。
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さて、私の場合、「幸せ」「幸福」という言葉に、じつはかなり違和感があります。
これまで「幸せになりたい」と思ったことはなく、よいときも悪いときも、この状況に意味があるに違いない、と思う性質(たち)のような気がします。
よいときは、浮かれないように、やるべきことをやらねば、と思いますし、悪いときは、この修行が後で役に立つだろうから、やはり、やるべきことをやらねば、と思います(笑)。
よいときに、「この好機に一気に拡大だ」と急成長を遂げるフランチャイズチェーンのようなことをやると、中身があれもこれも間に合わず、かなり大変なことになってしまいます。悪いときには、当然、落ち込みますが、落ち込みつつも「この修行が後で役に立つ」と自分に言い聞かせて、しぶしぶ動いているうちに、なんだか楽しくなる、という感じです。
外的要因は、「仕合わせ」、つまり、めぐりあわせ、なりゆきの部分も大きく、何が「幸せ」かは、そのときには分からないと感じます。
あえて書くと、自分にとっては、自分がやりたいことをやるというのが「幸せ」ですが、これは自分がやりさえすればいいので、比較的簡単に「幸せ」になれます。
世の中や、自分でない人は、たとえどんなに親しい人であろうとも、決して自分の思いどおりにはいきません。もちろん、自分でも、自分の思いどおりにはなりません。面倒くさいこと、やりたくないことは、やりません。そこで、自分には、できるかぎり、どうしてもやりたいことを勝手にやらせるしかないのかな、と思います。
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ところで、「勝ち組」「負け組」に関して、安藤忠雄さんの本「建築家 安藤忠雄」にも、印象的な部分があります。そのことに関して、たしか前にこのブログで書いたのでリンクしようと思ったら、他の媒体でした。
「建築家 安藤忠雄」には、「とにかく最初から思うようにいかないことばかり。何か仕掛けても、大抵は失敗に終わった」「いつも逆境の中にいて、それをいかに乗り越えていくか、というところに活路を見出してきた」とあります。
また、次のようにも書いてあります。
「人々は、『絶えず光の当たる場所にいなければならない』という強迫観念に縛られているように見える」「私は、人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う」「それ(光)に向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実があると思う」
これを読むと、やはりそうだ、と思います。
他人との勝負に勝とうが負けようが意味はなく、幸せとは仕合せ(めぐりあわせ、なりゆき)なので、やはり、自分のやるべきことをやる。どうしてもやりたいことを無我夢中でやるのが一番ではないかと思うのです。