ずるい人のずるい人生

先日、近くの通りを歩いていると、女の子が「ずるい、ずるい」と叫んでいました。
何をずるいと言っているのか?

弟だけ何かをもらったのがずるいと、母親らしい人に怒りをぶつけています。
母親らしい人は、「だって、〇〇ちゃん(女の子の名前のよう)は、~」と言っていましたが、よく聞き取れませんでした。

女の子は納得せず「ずるい、ずるい」と叫び続けながら、母親らしい人と弟らしい子供と行ってしまいました。

「ずるい、ずるい」

「ずるい」の国語辞典的な意味は、「自分の利益を得たりするために、要領よく振る舞うさま。そういう性質」。

類語は、卑怯、姑息、狡猾、悪質、汚い、悪賢い、不正、不公平などなど。

きっと
一の努力で一の成果 三の努力で三の成果
というのが、公平で、ずるくなく

一の努力で三の成果の人は、三の努力で三の成果、三の努力で一の成果の人からすると、不公平で、ずるい人になるのかもしれません。

そうなると、いろいろな人のいろいろな人生のなかで、私たちの「普通」は、誰かにとっては「普通」ではなく、私たちは、そんな意識はないまま、「ずるい人」「ずるい人生」かもしれません。

たとえば、
平和な時代に生まれてずるい
ジェノサイド(集団殺害)に関係ないところで生きられてずるい
日本に生まれてずるい
安全に暮らせてずるい
健康でずるい
学校に行けてずるい
暴力を受けずに済んでずるい
閉じ込められていなくてずるい

そして、
今日も生きててずるい
明日も生きられるのはずるい などなど

世界でも日本でも、過去でも現在でも、いろいろなことが起きていて、
私たちが、ある意味、「ずるい」状態は発生しています。

しかし、私たちがそんなことを考えることはほとんどなく、
本人にとって、自分たちの日常は「普通」だと思っています。
そして、日々「贅沢な悩み」を口走っています。

すなわち、自分たちは、
自分は「三の努力で一の成果」だと思っていても、
「いえいえ、あなたは、一の努力で十の成果でしょう」
と思える立場の人もいるかもしれません。

だから、現状に感謝したほうがよいと言っているわけではなく(感謝はしたほうがよいのですが)、そんな状態が、歴史的にも、地球的にも、宇宙的にも常態(普通)なのかもしれないということです。

そんななかで、どう生きるか、私たちが選べる部分はあるし、思っているよりも、私たちには、いろいろな制約は少なく、可能性があるのかもしれません。